猫殺し批判(の批判)から考えたあれこれ

http://anotherorphan.com/2006/08/post_369.html
このブログでは、あんまり政治的な話題には触れないようにしています(たまに触れるけど)。理由は、反論への応対がストレスフルだから。大雑把な話、首相の靖国参拝を肯定するブログのほうが、否定するブログより10倍は書きやすいです。トレンドに逆らうとさあ大変。コメント欄が大変なことになります。書き方に気を遣うことで、トラブルはそれなりに回避できるだろうとは思っていますが、それなら、他のたわいも無い話を書いたほうがいい、という判断になることが、この頃はよくあります。ある意味とても悲しく、また、窮屈なことですが、ブログのためばっかりに、時間を使っているわけにも行きませんしね。

で、ここからが本題な訳ですが、例の猫殺し小説家の件について書いたブログがありました。エントリの趣旨が興味深く、脊髄反射的に「子猫を殺すなんて人間とは思えない!」と"大合唱"するようなタイプの人は、猫殺しをするような屈折した人間よりも、むしろ危険なのではないか、というようなものでした。実際そういう人間のほうが、案外簡単に他人をガス室に遅れるんじゃないだろうか、と。例えにファシズムやナチを持ち出してしまったために、面倒なことになってしまったようですが、面白いことを書くなあ、と感心しました。
気になるところもあります。ネットを見渡しても、猫殺しに対する批判自体、そんなに沢山は見当たらないんですよね。書いたとしても「だから何」と突っ込まれて終わりそうな感があります。なので、僕としては、猫殺しは方便ではないか、と考えるわけです。むしろ、本題は、ネットイナゴのことについて書いているのではないか、と。ただ、正面きって非難すると、かえってわらわらやってきて面倒になるかも・・・・ということで、猫殺しの話でオブラートにくるんだ、というところでは無いかと思います。考えすぎでしょうか。

ぐだぐだとまとまりがないまま書いてみたところ、非常に眠くなってきたので、続きは次のエントリで書くことにします。